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石川県関係陸軍軍人列伝1 (あ〜た) 
氏 名 青木 重誠(あおき しげまさ) 安達 二十三(あだち はたぞう)
出 身 「青木 織之助」陸軍中尉の長男として生まれる。 「安達 松太郎」陸軍教授の四男として生まれる。
出生〜没年 明治26年(1893年3月15日)〜昭和18年(1943年6月29日)享年50歳 明治23年(1890年6月17日)〜昭和22年(1947年9月10日)享年57歳
経歴1 金沢第二中学校(現金沢錦丘高校)、名古屋陸軍幼年学校、中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)陸軍士官学校(25期)を卒業。大正9年(1920年)陸軍大学(32期)卒業。 明治44年(1910年)陸軍士官学校(22期)を卒業。大正11年(1922年)陸軍大学(34期)卒業。歩兵第12連隊長、第37師団長(中将)、北支那方面軍参謀長を経て昭和17年(1942年11月)第18軍司令官に転補されニューギニア戦線に動員
経歴2 昭和17年(1942年8月) 第20師団長(中将)となりニューギニア戦線に動員され、昭和18年(1943年6月29日)マラリアにより戦病死 安達十六陸軍少将 安達十九陸軍中将は兄。ニューギニア戦線で終戦を迎え、自ら戦犯として服役を続け、拘留中の部下8名の釈放が言い渡された後昭和22年(1947年9月10日)自決する。
氏 名 阿部 信行(あべ のぶゆき) 市川 堅太郎(いちかわ けんたろう)
出 身 金沢で加賀藩士「阿部 信満」の息子として生まれる。 石川県出身
出生〜没年 明治8年(1875年11月24日)〜昭和28年(1953年9月7日)享年77歳 明治3年8月15日(1870年9月10日)〜大正14年(1925年2月4日)享年55歳
経歴1 東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高校)経て、第4高等学校(現金沢大学)を中退して陸軍士官学校(9期)を卒業し陸軍砲兵将校となる。少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長を務め、中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して大将に親任される。 明治23年(1890年)陸軍士官学校(1期)を卒業。明治33年(1900年)陸軍大学(14期)卒業。歩兵第9連隊長、歩兵第7旅団長(少将)、歩兵第39旅団長を経て大正7年(1918年11月)中将に昇級して由良要塞司令官となり、その後第15師団長に親補された後、大正12年( 1923 年)3月予備役編入
経歴2 軍事参議官の後、昭和11年(1936年)予備役編入。昭和14年(1939年8月30日)内閣総理大臣に就任。昭和19年(1944年)朝鮮総督に任じられ終戦を迎える。
氏 名 井上 一次(いのうえ かずつぐ) 岡本 清福(おかもと きよとみ)
出 身 石川県出身 「井上 盛重」の二男として金沢に生まれる 石川県出身
出生〜没年 明治6年(1873年7月28日)〜没年不詳 明治27年(1894年1月19日)〜昭和20年(1945年8月15日)享年51歳
経歴1 第4高等中学校(現金沢大学)経て、明治27年(1894年)陸軍士官学校(5期)を卒業。日清戦争では歩兵第20連隊付として出征。明治34年(1901年)陸軍大学(15期)を卒業 大正4年(1915年)陸軍士官学校(27期)を卒業。大正14年(1925年)陸軍大学(37期)卒業。昭和17年(1942年)南方軍総参謀副長(少将)、昭和18年(1943年)陸軍中将に昇級後、スイス公使館付武官となる。
経歴2 日清戦争では歩兵第20連隊付として出征、日露戦争には鴨緑江軍参謀として出征し奉天会戦に参加。大正7年(1918年)少将昇級、大正12年(1923年)中将に昇級、昭和2年(1927年)予備役編入 昭和20年(1945年)1月1日脳溢血で倒れる。半身不随となるが意識ははっきりしていたため戦争末期(昭和20年6月頃)から和平工作に関与していたが昭和20年(1945年)8月15日チューリッヒの居宅で拳銃により自決
氏 名 河村 参朗(かわむら さぶろう) 木越 安綱(きごし やすつな)
出 身 加賀藩士陸軍大尉「鈴木 知康」の息子として生まれ、教員「河村 寛二」の養子となる。 加賀藩士砲術師範「加藤 忠直」の二男として生まれ、加賀藩奉行職「木越 安敷」の養子となる。
出生〜没年 明治29年(1896年10月7日)〜昭和22年(1947年6月26日) 享年51歳 嘉永7年3月25日(1854年4月22日)〜昭和7年(1932年)3月26日 享年78歳
経歴1 陸軍中央幼年学校予科・本科を経て大正6年(1917年)陸軍士官学校(29期)を卒業、大正13年(1924年)陸軍大学(36期)を卒業。昭和20年(1945年)中将に昇級し広島で終戦を迎えた。 明治10年(1877年)陸軍士官学校(旧1期)を卒業し、西南戦争に出征。日清戦争では第3師団参謀として第3師団長「桂 太郎」のもとで活躍。日露戦争では韓国臨時派遣隊司令官として出征。
経歴2 シンガポール華僑粛清事件の戦犯容疑で逮捕され、昭和22年(1947年)シンガポールで死刑が執行された。長兄「鈴木 実」陸軍軍医少将 次兄「鈴木 重康」陸軍中将 明治38年(1905年)中将に昇進し、第5師団長として黒溝台会戦に参加し第8師団(立見 尚文中将)を全滅から救う。さらにグリッペンベルク大将の大軍を破り奉天会戦の勝利に貢献
氏 名 桑木 崇明(くわき たかあき) 佐藤 賢了(さとう けんりょう)
出 身 石川県出身 陸軍大佐「桑木 崇台」の三男として生まれる。 石川県河北郡花園村字今町(現金沢市今町)に生まれる。
出生〜没年 明治18年(1885年10月22日)〜昭和20年(1945年12月6日) 享年60歳 明治28年(1895年)6月1日 〜昭和50年(1975年)2月6日 享年80歳
経歴1 明治37年(1904年)陸軍士官学校(16期)を恩賜で卒業、大正3年(1914年)陸軍大学(26期)を優等で卒業。 金沢一中(現泉丘高校)を経て大正6年(1917年)陸軍士官学校(29期)を卒業、大正14年(1925年)陸軍大学(37期)を卒業。
経歴2 昭和11年(1936年)中将に昇進し、昭和14年(1939年)予備役編入 昭和16年(1941年)少将に昇進し、昭和17年(1942年)陸軍省軍務局長を歴任。支那派遣軍総参謀副長を経て昭和20年(1945年)中将に昇進。昭和13年(1938年)軍務課国内班長として帝国議会での「国家総動員法」委員会において陸軍省の説明員として出席時に長時間法案説明と演説したことに対する他の委員から野次に対して「黙れ」と一喝する「黙れ事件」を起こす。
氏 名 塩屋 方圀(しおや かたくに) 高柳 保太郎(たかやなぎ やすたろう)
出 身 石川県出身 加賀藩士「堀尾 治郎兵衛」の息子として生まれる。 石川県士族「三浦 賢高」の二男として生まれ、「高柳 文吉」の養子となる。
出生〜没年 嘉永2年12月(1850年)〜大正3年(1914年)11月11日 享年64歳 明治2年12月9日(1870年1月10日) 〜昭和26年(1951年)9月7日 享年81歳
経歴1 西南戦争では砲兵第6大隊を指揮し、熊本鎮台に籠城した。 成城学校(現成城中・高校)を経て陸軍士官学校(3期)陸軍大学(13期)を卒業。日露戦争には第二軍司令部付参謀(作戦担当)として参加。第一次世界大戦では青島攻略軍兵站部長として出征。
経歴2 明治27年(1894年)8月 少将として日清戦争に出征。明治32年(1899年)中将に昇進し、東京湾要塞司令官に着任。明治35年(1902年)予備役編入 大正6年(1917年)少将に昇進。大正11年(1922年)中将に昇進。大正12年(1923年)予備役。近代日本における対ロシア・ソ連諜報活動に従事した情報活動の先駆者であり、「弘報」「特務機関」の命名者でもある。